岡崎先生岡崎先生コラム

・特技 マジック
・趣味 カラテ(最近さぼりぎみ…)、ダイビング(最近ブランクダイバー…)、最近ゴルフ。
     その他食べ歩き(特にラーメン大好き)などなど。好奇心旺盛なため、沢山あります。

子供のころ ・中学時代 ・高校時代 ・大学時代 ・大学卒業前 ・大学卒業後

子供のころ

とにかく内気な子供でした。
スポーツが苦手で、屋内で遊ぶのが好きでした。とくに野球などの団体スポーツはこの上なく苦手でした(今も大の苦手です)。
反対に、本や図鑑を読むのが好きで、とくに昆虫の図鑑は、幼稚園時代でボロボロになっていました。幼稚園の先生に、『先生、あのチョウチョ、何て名前かわかる?』と質問し、『あれはね、○○目××科の△△やで』などと毎日言っていたそうです。
"昆虫博士"などと呼ばれ、将来を期待されましたが、いまは何を見ても同じに見えます。
外で遊ぶのは好きではなかったのですが、虫取りだけは好きでした。岡崎歯科医院の裏手にある草津川の堤防は、昆虫好きにとったら宝の豊庫で、虫取り網を片手に日が暮れるまで昆虫採集に明け暮れていました。昆虫採集に興じるあまり帰りが遅くなり母親によくおこられた記憶があります。いろんな昆虫を捕まえては飼育していましたが、今は触るのも気持ち悪いです。

また、プラモデルが大好きな子供でした。お小遣いは、すべてプラモデル代に消えました。いろんなプラモデルを買って改造して楽しんでいました。
当時、岡崎歯科医院から歩いて数分のところにおもちゃ屋さんがあり、毎日のように顔をだしていました。今考えたら迷惑な客です。
こっそり父親の診療室に忍び込み、"歯医者の道具"(今わかるところの技工の道具です)を勝手に拝借し、それを用いてプラモデルを造ったりおもちゃの改造をしていました。
当然、次の日には父親にばれるわけです。
プラモデル作りが好きな私にとったら、父親が技工室で行っている仕事を見て、『毎日、工作してるんや、遊びみたいな仕事してるんやなあ』などと勘違いをしていました。
とにかく好奇心旺盛で、"落ち着きのない"子供でした。

↑ページトップへ

中学時代

相変わらずスポーツが苦手な私です。
科学部に入部するも、活動した記憶が全くありません。
当時、アニメの『機動戦士ガンダム』がヒットします。そして、バンダイのガンダムのプラモデルが爆発的にヒットしました。
例にもれずプラモデル好きの私は、店頭に並んで買いました。アニメをあまり見ていなかったのですが、プラモデルの方に興味持ち、買っては造っていました。本末転倒です。
この頃、空前のプロレスブームが襲います。タイガーマスク、アントニオ猪木、ハルクホーガンなどがリング狭しと暴れ回り、実況が古館一郎アナウンサーでした。スポーツ苦手の私のはずが、これは燃えました。テレビでプロレス技を覚えて、学校で掃除をさぼってプロレスごっこをしていました。
今、スポーツデンティストとして活動させていただき、いろんなプロの格闘技家やプロレスラーと知り合いになっていますが、そのころは全く予想もしなかったことです。
また、音楽で、『イエローマジックオーケストラ』が流行りました。通称YMOです。シンセサイザーを使った音が興味をそそったわけです。4歳の頃から小学校卒業までエレクトーンを習っていた私は、YMOの楽譜を買ってきて、必死で弾きました。時間が忘れるくらい弾きました。エレクトーンを習っていた時代ではありえなかったことです。エレクトーン嫌いを知っている両親があきれていました。

いろんな音楽に接し、ドラムを始めました。ところが今みたいに誰でもバンドができるという環境ではなく、情報も少ない時代でした。とりあえず、教則本を買ってきて練習しました。基本、私は練習が好きなので、かなり練習しましたが、自分のセンスのなさも手伝い全く使い物になりませんでした。
また、夜中にドスドス音をたてるので、これもまた怒られました。

↑ページトップへ

高校時代

入学と同時に写真部に入部。写真に興味を持つのは父親の影響が大きかったと思われます。当時は今のようなデジタルカメラなどなく、高いお金をだしフィルムを買っていました。
また、現像に出すお金もないので、自分で現像していました。ここで役に立つのが、父親の診療所にあったレントゲンの現像用の暗室。"父親公認"で診療所を利用。
また、カメラという機械そのものが大好きで、あきずにガチャガチャいじっていました。さすがに父親の宝物のカメラをいじくっていると怒られましたが…。
旅行にいくときなど、大きなカメラを肩にかけ、交換用のレンズを何本も持ち、人より荷物が倍くらい多かった記憶があります。
旅行先でもとにかく写真を撮りまくりました。おかげで、今、写真をみても私の写っている写真はほとんどありません…。
滋賀高校文化祭の写真展に出展し、入選させていただきました。
また、この時はとにかく音楽を聞きました。いろんなジャンルの音楽を聞きました。また、バンド仲間もできて練習もしました。しかし、人前で演奏するに至ることはなく、人に知られることはありませんでした。
本当に上手くなりたく、京都のドラムスクールにレッスンを受けに行きました。ジャズの先生で、非常に上手いジャズドラマーです。受験勉強で忙しかったのですが、練習することが大きな息抜きだったと思われます。
色んなテクニックを習い、元来凝り性な私は変に難しいマニアックなフレーズばっかりを練習するようになってしまい、自分は上手いと悦にいっておりました。しかし、これでは通用しないとわかるのは大学に入ってバンドを組み始めてからです。

↑ページトップへ

大学時代

大阪歯科大学に無事入学しました。
そして、バンドに真剣になります。関西大学の軽音楽サークルにも入り、バンド活動に勤しみます。
ドラムのレッスンもまともに受け練習しました。しかしなかなか上手くなりません。発表会や、ライブハウスを借りてライブをしたことが何回かありましたが、見るも無残 (聴くも無残、が正しいでしょうか…)な結果に終わりました。
大学入学と同時に興味をもち、やり始めたことが二つあります。

一つは、カラテ、もう一つはマジックです。

中学よりプロレスファンになった私は高校時代に、カラテにあこがれを持ち『大学にはいったら、カラテをするぞ!!』と思っておりました。
そして、入学して、芦原會館というカラテの道場に入門しました。
今まで、スポーツを全くと言ってよいほどやっていなかった私にとっては、非常に大胆な話です。周りの人に、『カラテするの??前歯なくなるよ!!』と真顔で言われました。それも、一人や二人ではありません。
一大決心をし、入門しました。こわごわの入門です。
案ずるより産むがやすしという諺がありますが、入門してよかったと思います。
たしかに、カラテの修行ですから、厳しいし、しんどいですが、無理強いさせられることもなく、シゴキやいじめなどは一切ない明るい空間でした。合理的で、それこそ"誰にでもできるカラテ"を丁寧に教えてもらいました。ですので、私の前歯は、本物のままです。三年ほど在籍し、色帯ですが、それなりの帯までいただきました。しかし、大学で進級するにつれ大学からの帰りが遅くなり、少しづつ道場から遠ざかることになり、残念ながら退会することになってしまいました。
これが、今の私のスポーツ歯科オタクの第一歩であると思います。

マジックですが、これは完璧にはまりました、というか今でもはまっております。
大学入学直前、従兄弟にマジックを見せてもらいました。従兄弟は大阪大学の奇術研究会に所属し、テレビで見るのと同じような現象を目の当たりにしたのです。
その感動というのは、並大抵のものではありません。
即、教えてと頼んだのですが、そんな簡単には教えてもらえません。自分なりに解析し本を読み、なんとかモノにして、次に会う時に、どうにか教えてほしい、と食い下がりました。
元来、細かい作業の好きな私は、練習するのが楽しくて楽しくて、毎日トランプを触っていました。
それから20年以上経ますが、いまだにマジックの魅力にとりつかれています。

↑ページトップへ

大学卒業前

バンドをしていて、大学卒業の年に『記念だ!!』と勢いで学祭に出演しました。
当時、黒ぶち眼鏡をかけていた私は、周りのリクエストもあり、『食い倒れ人形』の格好でドラムをたたきました。
これがえらく好評でした。しかし、演奏はやっぱり聴けたものではありませんでした。
本番の前日は、他のメンバーは自分の演奏に余念がない状態だったのに、私は、食い倒れ人形の格好をいかにするかが興味の対象だったので当然のことだと思います。

いったんやめたカラテですが、漠然とまたやりたいな、という気持ちになっていました。とはいえ、以前御世話になった流派は、ちょっと敷居が高くなってしまいました。一身上の都合とはいえ、退会させていただいた道場は行きにくいものでした。と思っている時、以前御世話になっていたカラテの先生と偶然出会いました。芦原會館から独立してご自身で道場をなさっているとのこと。気軽な気持ちで見学にいったら、やはりカラテへの興味がムクムクとわいてきて、入門を決めました。草津の野村にある、洗心会という道場です。身体障害者の道場生もおられ、福祉的な活動もされておられます。非常に人間のできた先生ですし、思いやりもある方なので、自分のペースでできたので、いい道場だと思います。また、自分のわがままも聞いてくださり、感謝しております。

こう見ると、仕事をせずに遊んでばかりいたように思われるかもしれません。しかし、そんなことはありません。
学生として、臨床にでて実際に患者様とふれあいを持たせていただくと、紙の上でしかしていなかったことが、本当のことになるので、とにかく毎日が新鮮でした。
また、国家試験を前にした一年間はかなり勉強をしました。そのぶん、時々行くカラテの稽古がいい刺激になりました。

↑ページトップへ

大学卒業後

無事に国家試験にも受かり、診療にも勉強にも趣味にも没頭します。
カラテも本格的に復活しました。帯もそれなりにいただき、それなりのことを任されるまでなりました。
常設の道場でしたので、何時まで稽古をしていても怒られません。
そんな中、試合に出たことがあります。グローブをはめて行う顔面あり(いわゆるキックボクシングに近いルール)です。
洗心会は試合を推奨していなかったのですが、試合を出たいという私の意見を快諾してくださり出させていただきました。
何も分からず無我夢中で稽古しました。夜8時から12時までの練習を週に五日、週に一日、出稽古で他の道場にて稽古させていただき、残りの日は大学の医局の研究日にあたり、道場に行けないので大阪城外周をロードワークで走るようにしていました。これを一年ほど続けました。スポーツが苦手な私としたら、かなりのメニューでした。
試合申請して、試合当日計量したら、試合申請したときの体重より6キロ落ちていて、主催者さんに『無理してないか?』と心配されました。

で、大事な試合結果は……、

なんと……、

反則負けです。

ま、試合には負けたけど、自分としてはやりがいがありました。
一番稽古をしていた時期だと思います。
また、実際に、マウスガード(マウスピース)を作って練習や試合をしていました。その経験が今のスポーツデンティストとしての自分を造っていると思います。

しばらくしたら父親が入院して私が岡崎歯科医院の診療に出なくてはならなくなり、道場から遠ざかってしまい、父親復帰後も、勤務先が変わり大阪で一人暮らし始めたのもあり、疎遠になり退会いたしました。

芦原會館も洗心会もいやでやめたわけではありません。一身上の都合でやめざるを得なかっただけで、いまでもその先生方を尊敬しています。

とある方との出会いにより、現在は、大阪に本部を持つ正道会館という流派に籍を置いています。
とはいえ、現在は稽古にほとんどいけず、カラテをやっているとはいえない感じです。
ただ、試合において大会ドクターをさせていただいたり、選手にマウスガードを作らせていただいたり、治療をさせていただいたりと、歯科の分野では積極的に活動しております。
スポーツデンティストとして今の私があるのは、正道会館のおかげだと感謝しております。

マジックも、この頃は、かなり上達してきました。
細かい仕事、人と接することが好きな私にとって、向いている趣味だと思います。
営業の仕事をいただくまでになりました。結婚式で頼まれたり、ショッピングセンターの一角で頼まれてしたこともあります。また、大手のボーリング場や大手のバーでイベントとしてマジックを頼まれて行っております。
歯科医師会でショーを頼まれたこともありました。
また、マジックバーのカウンターに立ってマジックを披露することも多くなってきました。

大学卒業すると同時に、大阪歯科大学の補綴学の研究室に入局しました。
補綴(ほてつ)とは、名前の通り、補って綴る学問です。つまり、歯が欠けたり、なくなった場合にクラウンや入れ歯などの人工物で補うことが補綴の基本です。
ですから、より"美しい"歯を提供する『審美治療』は補綴学という学問に含まれるのです。当然、インプラントも補綴学の範疇になります。また、普通に、修復物を作るだけではありません。口の中の触るわけですから、『咬み合わせ』という難関も立ちはだかっています。補綴学は、咬み合わせも含む学問です。
ですから、咬み合わせが悪くて、顎関節症になった患者様に咬み合わせの治療をするのは補綴家の仕事なわけです。

また、咬み合わせが悪くて本来のパフォーマンスが発揮できないスポーツ選手というのはたくさんおられ、咬み合わせの治療をしていい結果をだしてもらうのも、咬み合わせ専門家である補綴家の仕事だといえます。
スポーツマンが使うマウスピースは、咬み合わせに関して重要な位置付になります。
反対にいうと、不都合なマウスピースをはめると、スポーツ選手はまともな結果がだせないということにもなります。
それだけ、咬み合わせは大事なものだと思います。

なぜ、私が補綴科に入局したかといえば、まず、私が、顎関節症で、補綴科の先生に咬み合わせの治療をしてもらっていたので、僕も咬み合わせについてわかる歯科医師になりたい、と思ったのが最初なのです。
そして、自分がカラテをかじり、自分でマウスガードを装着するようになり、自分のマウスガードに対して疑問を持ち始め、スポーツマンに最高のマウスガードを提供したい、と思うようになってきました。
また、いろんな方に接するにあたり、患者様にきれいな歯を提供し、笑顔を取り戻してほしいと思うようになりました。
自分は補綴科に在籍していてよかったと痛感します。

大学の研究室に10年以上在籍していたことになります。
その間、いろいろなころがありました。
大学に在籍している先生だからというので、いろんな医院から御声をかけていただきました。
いろんな医院に行かせていただきました。自費をメインとする審美歯科にもいかせていただきました。
また、マウスガードもいろいろな選手に提供させていただきました。テレビに出るような一流選手にも提供させていただいております。格闘技の大きな大会で、大会ドクターのお仕事もさせていただいております。
咬み合わせや審美歯科に関しても、勉強させていただきました。
そして、念願の歯学博士の学位もいただきました。

子供の頃、昆虫博士と呼ばれていた私が、本物の歯学博士になれたわけです。

大学とのパイプは持ちつつも、これからは、いままでの経験を生かして、地元の患者様のために尽力したいとおもっております。

↑ページトップへ


Copyright c Okazaki Dental Office All Rights Reserved.